10年前のあの日。
2011年3月11日。三陸沖にて発生したマグニチュード9.0の大地震。
死者・行方不明者合わせて2万人超となった。日本中が悲しみに暮れ、感じた絶望。
次第に沸いてくるのはやるせ無さを通り越した憤り。地震と付き合わなければいけない我々日本人が直面した圧倒的現実。甘く見ていた津波の脅威。そして原子力災害の恐ろしさ・・・
南海トラフ巨大地震の当事者になるであろう静岡県民の私は他人事ではなかった。
時の流れは早い。
あの時のことは今でも数年前のような感覚で覚えている。
しかし、あの時の憤りを今でも持っているのかと言われればNOだ。
10年と時を刻むたびに失われていった当事者意識。復興を応援したい気持ちは変わらないのだが、今が震災後であると同時に震災前であることを再認識しなければならない。心にあの時の憤りを蘇らせ、次なる当事者としての自覚を取り戻すために被災地を訪れてみた。
・・・という理由は建前。
本音は単純な興味本位。気になったら自分の目で見たくなってしまう困った性格。これは仕方がない。
だって帰還困難区域の様子とかサイボーグ化された奇跡の一本松とか気になるじゃん。
そんなこんなで実質3日間の旅程を紹介。
今回の訪問では、福島第一原子力発電所事故に伴う帰還困難区域から出発し、復興のシンボルとなっている奇跡の一本松のある陸前高田で折り返す形で仙台市街へ戻った。
1.帰還困難区域 夜ノ森駅周辺
2019年に駅舎が改修され、2020年3月に運転再開された駅。
駅の東側は一部の道路を除いて封鎖されたままとなっている。反対である西口は避難解除がされているものの人影はまばら・・・というのか工事関係者以外ほとんど見なかった。空き家も目立つ。道路に走るのはトラックや行政の社用車が多い。バリケード内の建物は今でもあの時のまま。そして、現在進行形で除染作業が続けられていた。
2.帰還困難区域 国道6号線
国道6号線は福島県富岡町から浪江町までの区間が帰還困難区域となっている。
この間に福島第一原子力発電所が存在している。沿線沿いには廃墟となった店舗が残されていた。
3.帰還困難区域 大野駅
福島県大熊町にある大野駅周辺・・・を歩く予定であったが駅にたどり着くことができなかった。
Googleマップで調べた駅までの経路は全て封鎖されており、バリケードに立っている作業員の方に聞いた道も封鎖されていたため探索は諦めることにした。
4.震災遺構 浪江町立請戸小学校
福島県浪江町、海沿いの小学校。迅速な避難行動で命を守ることのできた学校。
津波の爪痕も色濃く残されている。展示の言葉ひとつひとつが心に刺さった。見学を通して津波から命を守るための教訓を気づかせてくれた。
5.帰還困難区域 双葉駅
福島県双葉町、強烈な皮肉となってしまった標語「原子力 明るい未来のエネルギー」の看板が掲げられていた町。多額の利益をもたらしたのも事実であろうが、取り返しがつかなくなったのが現実だ。夜ノ森駅同様に人影は少ない。次の駅である浪江町まで行けば小型のイオンもあり、人影も多く人の営みを感じることができた。
6.震災遺構 山元町立中浜小学校
開館時間に間に合わず夜間に訪問。外側からでも一部が見ることができた。絡みつく鉄骨が津波が放つ威力を物語る。
仙台市街に近いものの海側は星がとても綺麗。
7.震災遺構 石巻市旧門脇小学校
石巻市の海沿いに建てられた小学校。震災遺構として公開準備中ということで外観のみ撮影。10年経ても整備が終わらないのかと驚いたが、他の施設も概ね2020年前後に一般公開となっている施設が多い。震災の当事者にとってはまだ終わっていないことなのだと痛感する。門脇小学校は2022年に公開予定。ほぼ完成したように見えるが工事関係者の出入りがあった。目の前の広大な土地には石巻南浜津波復興祈念館が建てられている。
8.震災遺構 石巻市立大川小学校
児童74名、教職員10名が犠牲となった。他の震災遺構では津波の脅威を肌で感じることができるものの犠牲者がほとんどでていない。その反面、大川小学校では大人の誤った判断と決断の遅れにより助かるはずの命が失われてしまった。言葉を失うほどのやるせなさ。この場所を訪れて亡くなった児童を思うと自然と涙が溢れた。誤った判断をした者へ怒りに似た感情はあれど、私が同じ立場にあったと思うとその判断を修正させることができたのだろうか。本当にやるせない。
9.震災遺構 ブライダルパレス高野会館
津波の被害は甚大で、なんと屋上30センチまで浸水したということ。
地震の直後に帰ろうとする客を引き止めてその場にいた者全員と避難に来た近隣住民は難を逃れた。
10.震災遺構 旧南三陸町防災庁舎
43人もの人間が命を落とした庁舎。
当初の警報では6メートルの津波と予想されたが約28分後に10メートルと修正。
結果として15.5メートルの津波に襲われて高さ12メートルの建物を飲み込む形となった。骨組みだけになった建物が10メートル級の津波の恐ろしさを伝えている。現在、庁舎周囲の土地は10メートル嵩上げされ、人が住むことはできないが飲食店が並ぶ南三陸さんさん商店街は大きな賑わいを見せていた。(タコの唐揚げがめちゃくちゃ美味しかった)
11.震災遺構 旧気仙沼向洋高校
崩壊具合と津波の残留物の多さでは一番であった。
スマトラ沖地震の報道も覚えているが、自国でないというだけで遠い国の昔話になってしまっていたのだ。
ずっと胸焦がれていたサイボーグ戦士との出会い。
サイボーグせんし、たがためにたたかう。
思わず009のOPを口ずさみたくなる。
・・・奇跡の一本松。大津波の被害に遭った松林唯一の生き残り。生き残ったものの津波の被害によって根が海水に浸るようになってしまった。
化学の力でも避けられない枯死の運命。待っていたのは全身の機械化による保存。一本松は復興のシンボルとして現在も当時の姿のままそこに立ち続けるのであった。
・・・思ったより機械感はなかったよ。
後ろにはユースホステルの遺構と敷地隣に旧道の駅が残されていた。
3枚目の松とホテルの間には震災遺構の陸前高田気仙中学が残るが、そこに至る道が通行止めで近づくことはできなかった。
ちなみに私は平成版009世代なので音楽はglobeだ。
新たに建設された防災建築にも注目したい。
13.震災遺構 仙台市荒浜地区住宅基礎
仙台市の海岸沿いにある津波で破壊された住宅地。住宅基礎と呼ばれる土台部分だけとなった街の姿。
津波危険区域として人が住むことができなくなった場所。建物が少なくなったこの近辺、夕日がとても美しかった。
1枚目の観音像は到達した津波と同じ高さとなっている。
仙台市唯一の海水浴場として知られたこの場所も再開の目処は立っていないという。
14.震災遺構 仙台市荒浜小学校
開館時間に間に合わず外観のみ撮影。
以上が今回訪問した震災遺構となる。
他にも気仙沼市街地や石巻市街地など寄った場所があり、震災遺構の開館時間に間に合わないということが数知れずあった。
それだけひとつひとつの場所で考えさせられることが多いとも言え、こんなにも感情を動かされる体験は久しぶりだったと思う。
それだけエネルギーを消費する震災遺構巡り。時間が掛かるのは必然かな。サクサク次へ次へと旅程を組んだのだが、初日から計画の半分、2日目で半分にも満たないと、自身の計画性の甘さが目立った。本来であれば岩手県宮古市まで旅程を組んだのだが、陸前高田市で折り返すことのなったのは残念だ。
当初は興味本位で訪問となったのだが、実際に訪れてみると、建前だった憤りが沸き上がってきた。東日本大震災後を経て知った原子力発電のリスク、津波の恐ろしさ。今となっては常識だが、津波の警報が鳴ったら真っ先に高台へ避難する。私自身も震災当日こんなことになるとは思いもよらなかった。この教訓を忘れないで明日を生きようと思う。
結構な距離の移動であったが、国道6号線がスムーズに動くのは当然として、海沿いの道路は一部区間を除いて渋滞知らずに移動ができた。高速道路の無料区間が長いのも本当に嬉しい。ぜひ、自分の目で見て感じてもらいたい。