廃屈な日々〜旅と廃墟の回顧録〜

静岡県を中心にちょっと違った旅の記憶と記録。

皆ヶ作 赤線跡 横須賀市

軍都横須賀の赤線地帯

神奈川県横須賀市北部にある田浦地区。

戦前から軍都横須賀の一地域として発展した町。

京急田浦駅のすぐ近く長浦港は、かつて海軍工廠造兵部があり、周辺には軍需工場や軍事施設が多かった。こういう場所に付き物なのが色街であり、皆ヶ作の客層は軍で働く者たちであったことが容易に想像できる。最盛期の戦後には約40軒ものカフェーが存在したということ。

 

京急田浦駅前に伸びるアーケード街。

 

皆ヶ作には有名な遺構が2軒存在する。

この通りを越えて行くのだが、中心市街地にもかつての色街を彷彿とする場所が散見していた。

 

かつて全蓋式のアーケード街のあった通り。

横須賀というか、三浦半島は何度も来ているはずだが田浦地区は今回が初見。とても惜しいことをしていた。この通りは小さい京急ストアが印象的だった。

 

近くには花街を思わせる料亭。

 

妖しい雰囲気のある横丁が残っている。

 

こちらのアーケード街左手に見える煙突は銭湯のもの。この手の場所には付き物だ。

 

向かい合うセブンイレブンの新店舗と旧店舗。タイルで分かる。この辺りは時間の流れがスローで心地よい。

 

年季の入ったタイル張りのビルを尻目に皆ヶ作の深淵へと向かう。

 

かつては多くのカフェーで賑わった皆ヶ作であるが、現在では普通の住宅街。それでも入り組む町割りや飲食店の跡がかつての姿を思わせてくれた。

 

皆ヶ作の遺構ツートップの一角。
堂々たる佇まいの妓楼。現在は住宅となっていた。

 

特徴的ななすび型の窓。

写真を撮っている時には気が付かなかったが門柱に怖い形相の生首がいますね・・・。

 

皆ヶ作へ行った時期はどうも写真のモチベーションが上がらない時期だった。門柱の生首を見落としていたり、欲しいカットが撮っていなかったりと散々な結果。他にも見落としている部分は多そうだ。

 

気を取り直してもう一角へ。

 

こちらも負けじと威風堂々。

モルタル外壁の凝ったカフェ建築だ。

 

カフェーにありがちな斜めに切り取った入り口。

 

鑑札にある「バー」の文字。

 

アーチを多様した洋風な外観。

 

絢爛な正面と裏腹に横を見れば安価なトタン板。

もちろん木造建築だ。一番最初の写真を見てもらうと分かりやすい。まさに、お手本のようなカフェー建築とはこの事だろう。

 

遺構横の階段を登ると廃屋が待っていた。

 

ここも何かの店だった様だ。

 

周囲にはカフェーから住宅へリノベーションしたであろう物件が残っている。

 

こちらの住宅なんて間違いないでしょう。

 

正面の丸窓やドアと2階部分のアーチ状の意匠が特徴的。

 

リノベーションした時期も最近な様子で、かつての外観を活かしたオシャレな住宅だ。

 

所々に残るレトロな風景。眼福。

 

この辺りが皆ヶ作の最深部。

下校する小学生の集団が眩しくて直視できない。

 

そんな私の心を癒してくれたコインランドリー富美子。富美子とはかつての屋号だろうか。

 

狭い店内には洗濯機が並ぶ。

未来ある若者を見て羨ましくなる歳となってしまった。

今のままではいけない。だからこそ私は今のままではいけないと思っている。

 

田浦地区 旧役場

冗談はさておき、皆ヶ作の赤線跡は以上となる。

代表的な遺構も見れて満足な1日であった。それでもちょっと物足りない。

 

ちょうど1年くらい前の訪問だったか。22年は秋から交通事故の影響もあって半年くらい趣味の時間を中断していた。それが明けて再開した時期となるのだけど、どこへ行ってもしっくり来なかったのを覚えている。皆ヶ作も同様で、記事を執筆しているともう一度訪問したい衝動に駆られた。気がつくと訪れている三浦半島、再訪は近そうだ。

大仁金山裏の廃神社② 静岡県伊豆市

人々から忘れられた神域

伊豆市にあった大仁金山裏の山神社。

危険伴う炭鉱に従事する者たちから信仰を集めていたであろう場所。

閉山から約50年。人々の記憶から忘れられた神域は草木に埋もれた姿で待っていた。

 

石碑に込めた願いの行方を知る者はいない。

 

落下した扁額は鳥居に寄り添っている。

おそらく訪れた者が形を揃えておいたのだろう。

 

鳥居には先客がおり、迂回を余儀無くされた。

 

境内は社へ続く階段と傾いた灯籠が並んでいる。

 

右奥には太鼓橋の架かる小さい社。

 

崩壊しかけている階段。

 

苔むす手水舎。

 

その全てが美しい。極上の廃空間。

 

水が溜まり、落ち葉は腐り、新たな生命の源となる。まさに輪廻転生・・・それは仏教か。

 

”大仁鉱山乃碑”

文字は掠れて読めない部分が多い。大仁温泉の源泉になったという文章があり、鉱山の歴史など書かれていそうだ。

 

10年で6メートル成長すると言われる杉の木は容赦なく灯籠の間に伸びる。

 

灯籠に生える苔も千差万別。

 

折れた灯籠。

雨風にやられたのか丸みを帯びていた。

 

この灯籠はエイみたいで可愛い顔をしている。

 

それにしても雰囲気のある場所だ。一瞬の光の加減で表情が変わるのが面白い

 

この辺りも凄く神秘的な雰囲気があったものの、写真でそれを表現するのが難しい。

まずホワイトバランスくらい合わせようかと自分に言いたい。

 

本殿を目指す。

 

隆起した箇所のある階段。このくらいは余裕。

 

到着。

本当はこういう場所ってレンズを向けてはいけない、けど許して。

かすかに続く信仰の形跡。

 

中腹から望む境内。

うむ堪能した。このままでは廃神社の魅力に取り憑かれてしまいそうだ。帰ろう。

 

帰りの道で虚無を撮っていると坑道から熊鈴の音が聞こえてきた。

はてさて、胸にGO PRO、上級者のマニアかと思い挨拶を交わす。そのまま通り過ぎたかと思いきや、こちらに戻ってくるではないか。

 

「今日はどちらまで行かれましたー?」

 

ええと、そこに廃神社がありまして、写真を撮りに来ました。

 

「実は私、時之栖の者でして、この鉱山の遺構を観光資源にできないか調査してたんですよ。このままにしておくには勿体無いと思って。」

 

まさかの管理者様と遭遇。

まだ検討の段階にも至っていないということであったが、時之栖グループがバックに付いた大仁金山の行く末はどうなることやら。

 

その際にもう少し上にも社があるという情報を頂いたが、藪が深そうな関係で撤退となった。いつか再挑戦したい。

大仁金山裏の廃神社① 静岡県伊豆市 

伝説の巨大廃墟の裏に眠る神社

伊豆金山の歴史は古い。

江戸時代に始まり昭和の時代まで続いた。

ここ大仁金山も同様に始まり、昭和期には帝国産金興行株式會社が運営し1973年まで操業が続いていた。坑内から温泉が湧いたことがあり、戦後は温泉を中心にスポーツや遊園地などが楽しめる複合型施設もあったということ。こちらと一部の工場は鉱山の操業停止後も営業を続けたが、1990年頃に閉鎖となった。

 

建物の解体は2000年頃と早く、今ほど廃墟というジャンルが一般的でない時代に存在した伝説的な物件でもある。

 

現在では遺構は少なく、伊豆温泉村として静岡では有名な時之栖グループが管理する土地となっている。

 

今回はその大仁金山跡の裏にあるという廃神社を訪ねてみた。

 

山道に残る信仰の跡。

 

しばらく歩くと資材置き場のような建物を発見。

 

その対面には煉瓦造りにモルタルが塗られた壁面が残る。

 

周囲には苔の生えた住宅基礎と思われる物やトタン屋根など残留物が散乱していた。

 

埋まる椅子。

 

寂びた金庫から生える雑草。

 

熟成された梅。

その他にも探せば色々と出てきそうな場所だ。

 

鉱山関係の場所へ行くと必ず大小の石碑がある。どれほど過酷な現場だったか容易に想像が付く。

 

坑道らしき穴も複数発見したが、いずれも閉鎖されており中へは入れない状態だった。

 

さて、歩みを進めよう。

足場は悪いが一本道だから迷う心配はない。

 

光さす鳥居が見える。

ここが大仁金山裏にある山神社だ。

 

扁額は落ちて真っ二つになっていた。

これは長くなりそうな予感。

一度区切り、次回へ続くとしよう。

横浜曙町 親不孝通りに残された赤線跡 

ハマの歓楽街に残る赤線跡

言わずと知れた”大都会”横浜。

神奈川県の県庁所在地であり、関東屈指の繁華街を持つ。

 

横浜の玄関口である関内駅

そこから徒歩圏内で多くの人々が交差する商店街イセザキ・モール。それに並行する形で北に一本の路地がある。

 

昼間でも妖しく光るピンクのネオン。

 

この通り一帯が曙町。通称「親不孝通り」と呼ばれている風俗街だ。

 

名前の由来は放蕩の限りを尽くして親の死に目に会えなかった者がいたからと言われており、地元以外の人から呼ばれる様になったらしい。

 

その歴史は1935年頃に遡る。

近隣の遊郭の影響を受けてカフェー街が形成されていった。そこからGHQ統治下の公娼制度廃止から売春防止法の施行までの期間は赤線地帯として発展していった。現在のヘルスやソープが乱立したのは93年頃となっており、風俗店営業の障壁となる病院が保険金詐欺で営業停止となったことが原因ということ。(横浜市中区の条例では学校や病院などから200m離れていないと営業できなかった)

 

大都市の駅前一等地ということで街の新陳代謝は早い。往時の建物には期待していなかったが、極上の物件が残っていた。

 

それこそがスナックルミ

 

ほんのりピンク色の壁面にタイル張り円柱と古代文明的な造形物の装飾が施されている存在感のある面構え。

 

斜めに取り付けられた扉と二階の意匠。

 

タイル貼りは青と緑の発色が美しい。

こういった典型的なカフェー物件は今や希少価値が高い。

 

古代文明的というのかギリシャ神話の彫刻というのか芸の細かい装飾はお見事の一言。

 

遠目に見てもこの存在感。

東北の震災の頃まで営業していたらしい。

 

関東屈指と言われるだけあり、かなりの風俗店が並んでいる。居抜きで古い店舗をそのまま使う店もあれば真新しい店など混在していた。

 

その中でカメラ片手に歩くのは気が引けるシチュエーション。慣れているとはいえ、”現役”の店先に立つキャッチのお兄さんの視線が痛い。

 

飲み屋の並ぶ横丁。正面には風俗店。

 

カフェー街の残影がひっそりと残る。

 

新旧入り混じった煩悩を刺激する街。

陽が暮れる時間から本当の姿を見せる。招かれざる客である私はここを抜けて本場の家系ラーメンでも食べて帰るとしよう。

輪島市 朝市通り 

失われた風景に思いを馳せる

元旦の16時10分に起こった令和6年能登半島地震は日常を一変してしまった。

 

被災された方に対しては本当に何て言ったら良いのか分からない。

私自身も連日の報道で深い悲しみに苛まれたのだが、当事者はその比ではないだろう。言葉にならないとはこういう事かと実感している。

 

能登半島は昨年の8月に訪れていた。

目的はのと鉄道廃線散策であったが、輪島市にも寄っていた。滞在時間は短かったものの、火災で消失した朝市通りも散策した。風情のある街並みで平日の朝だというのに活気があったのを覚えている。

 

午前9時の朝市通り。

 

「朝市」の名前の通りに朝から出店屋台が開いている。

 

江戸時代から続く名産品である輪島塗の漆器を売る店舗も多く並ぶ。

 

漆器は安い工場製の物から職人の作る伝統的な高級品までよりどりみどり。思わず観光客は足を止める。

 

近くに輪島港があり海産加工物も特産品だ。

 

私は朝食と昼食を兼ねて河豚の丼を頂いた。半生・肉厚でとても美味しかった。

 

食べ歩きも自慢のひとつ。さすが奥能登の観光基地と呼ばれるだけある。

 

地元出身の漫画家である永井豪記念館

1月24日の報道で展示されていた原画など一部は無事だったことが報じられた。願わくば復興のシンボルとして再建して頂きたい。

 

それでもこのマジンガーZは燃えてしまったか。もう少しかっこよく撮ってやりたかった。

 

昭和然とした店舗も魅力溢れていた。

 

少し目線を変えれば目に付く個性的な店先。

 

知る人ぞ知る重厚なルネッサンス調のイナチュウ美術館。

 

路地裏に隠れた素敵な風景も見逃せない。

 

連続テレビ小説「まれ」の舞台にもなった輪島市

 

これら風景は震災が原因の火災で消失してしまった。

どんなに願っても二度と目にすることのできない景色たち。

今までの震災を振り返っても自分が訪れた事のある土地が被害に遭うということは初めてで、感じたことのない喪失感を覚えた。1度訪れただけでこれなのだから、その土地で暮らしていた当事者の気持ちを考えると胸が締め付けられる思いだ。

 

輪島市は今年もう一度来訪しようと思っており、あえて充分な観光を行わなかった。

 

朝市通り周辺は風情ある街並みが広く残り、片手間で周るには時間が足りないと思ったからだ。それを後悔してもどうしようもない事か。被災された方に比べたら本当に小さなもの。昨年の思い出を振り返るとともに早期の復興を祈りたい。

鶴城荘 愛知県西尾市 赤線跡

西尾市会生町に存在した特殊飲食店街

抹茶や鰻で有名な愛知県西尾市

名鉄西尾駅から歩いてすぐの場所に「鶴城荘」という10軒程度の小規模な特殊飲食店街があった。名前の由来となった「鶴城」とは西尾城のこと。かの有名な徳川家康西尾城のことを「鶴城」と呼び、鷹狩りによく訪れていたらしい。赤線のルーツが何となく分かる。

 

駅から橋を越え、竜神通りを目指す。

 

この辺りは昔ながらの店が多く点在しており、歩いているだけで楽しい場所だった。

 

まだ赤線の入り口にすら辿り着いていないのに被写体が多くて困る。

 

「オカザキ」よりもカワイイに出会える街「ニシオ」。

 

これなんかもkawaiiって撮ったのだけど、立っている幟を見ると実に赤線跡らしい文字が並んでいた。

 

通りを進むと竜神通りの元ネタであろう神社がある。

この辺りから町の景色がディープな香りに包まれていった。

 

花街の名残なのか和楽器店もあった。

 

「かもん」とあって私の頭の中には蝶野正洋さんが浮かんだのだけど、日本酒なのだから家紋が正解なのかな。日本語って難しい。

 

竜神通りを神社の先へ進むと飲み屋街が現れる。

 

特徴的な外観をしている現役の店だ。

 

その先にも飲み屋が並ぶ。

 

怪しい雰囲気のある飲み屋街。

モダンな外観だが築年数は古そうだ。

 

隣の日本家屋と繋がっている。見るだけで凄い構造をしているのが分かった。

 

いわゆるカフェー建築の様式で少ないコストで華やかな雰囲気を演出している。

 

手前に見えていた蔦の茂る建物も凄い歪み方だ。

 

この辺りから異様な雰囲気は加速する。

 

言うならば鉄骨の魔城。

どうしてこうなったのだろうか?

 

曲がった先も鉄骨の主張が激しい。

 

突然現れた鳩の大群。

 

住人の方が2階から大量の餌を撒いていた。

 

鶴城荘へたどり着く前だというのに刺激的な光景の連続にノックアウト寸前。

 

竜神通りを過ぎて大通りが見えてきた。ここを横断すると鶴城荘へ着く。

 

途中の駐車場から鉄骨の魔城を眺める。

西尾市のサクラダファミリア的なものでしょうか。

 

駅前へ続く大通り。

さっきまでの雰囲気から一転して地方都市の顔を覗かせた。

 

それも一瞬で路地へ入れば「鶴城荘」の跡地となる渋い街並みへ戻る。

 

ショーウインドウが特徴的なタバコ屋さん。

 

昔のタバコってパッケージもそうだけど広告がかっこいい。

250円の時代だから20〜25年前か。古い街並みを歩く時は年代が分かる良い指標にもなる。

 

ちょうどタバコ屋を曲がると現役の飲み屋街が並んでいた。

 

どこはかとなく雰囲気のある住宅。

 

遺構らしい鑑札は見当たらず。

 

スナックか何かの居抜き店舗。シーシャBARだったかな。

 

住宅街の中にある古い物件。

 

手すりの意匠が光る。

 

明らかに小料理屋を改装した自然食品の店。

 

一見すると普通の住宅街だが商店跡も多く見られた。

 

どこか懐かしい雰囲気を持つ町並み。

 

神社にある遊具を見て時の流れを感じる。

私の子供の頃はかろうじてこの手の遊具は残っていたのだがね。

 

迷路の様な鶴城荘周辺を抜けると商店街に辿り着いた。

 

これもまた良い雰囲気で困る。

いつかこの通りをメインに散策しても良さそうだ。

 

以上、鶴城荘跡。

小規模な赤線であったためか、私の持っている資料にはほとんど情報がなくネット上でも詳細にまとめられていない物件であった。遺構らしきものはほとんど残っておらず、現在では普通の飲み屋街として営業していた。しかしながら、ノスタルジックな町並みと刺激的な一角と予想以上に撮れ高があった。何が楽しいのか、つくづく変な趣味を持ってしまったなと思う。

大仏飲食店街 富山県高岡市

高岡観光アンダーグラウンド

日本三大大仏に数えられる高岡大仏。

仏像界きってのイケメン大仏としても知られている。

高岡市出身の藤子F不二雄先生の相棒である藤子不二雄A先生の作品「まんが道」でも印象的なシーンで使われていた。富山県の誇る、言わずと知れた超メジャー観光スポットのひとつになる。

 

その超メジャー観光スポットの裏で昭和の香りをプンプンと放つアングラな激渋スポットが存在する。

 

まず、大仏の側道からして渋い。

 

歩くこと数十メートルで今回の目的地が見えてきた。

 

住宅地の中に切り開かれた「大仏飲食店街」、直球すぎるネーミングに心躍る。

 

中へ入ると骨組みになったアーチが出迎えてくれた。

 

裏から見ても鋭利な角度で繋がっているのが分かる。

 

アーチをくぐると住宅街にあるとは思えない光景が広がる。

 

看板が舞う。

所狭しと飲み屋がひしめき合っている。昭和の雰囲気が色濃く残る場所だ。

 

この骨組みアーチ、先人の訪問記録を読むと数年前まで、

大 仏 飲 食 店 街

 ようこそいらっしゃいませ 第二日曜公休

こんな感じの看板が掲げられていた。撤去されてしまったのが悲しい。

 

スナックパブひまつぶし。

 

ドアの中央に輝くライジング・サン。

初音という屋号はこの手の場所では定番だ。何か理由があるのか気になるところ。

 

鑑札など。

 

短い横丁のため通り過ぎるのはあっという間だ。

 

個人的に一番気に入った店舗はここ。傾いたスタンドの文字が良い塩梅で素敵。

 

以上、大仏飲食店街。

住宅街に突然現れるレトロな横丁。

短いながら凝縮された昭和成分が堪らない物件だった。惜しむべきはアーチの看板か。過去に高岡市には数回訪れているが私のアンテナが伸びきっていなかった。後悔してもどうにもならない。時の刻みは残酷なのだ。